●願いの前提としての願い
◎私共が、願わせて頂く、自分の心の中にイキイキとした元気な心を与えて下さいと、願いに願わせて頂いてそこに、御祈念中に何かしら神様とこれが交流しておるのではなろうかと思う程に、有り難い気持ちが開けてくる、そういう心で、今願わなければならない事を願わなきゃならない。
昭和45年9月13日 朝の御理解
X御神訓 一、祈りてみかげのあるもなきも わが心なり。
祈るという事と、みかげはつながっておらなければならない。祈っておる事、云うならば祈るという事はここではお願いという事になるでしょう。お願いをしてもみかげがあるのもないのも自分の心だと云われる。
ここの所に限りない信心の深さというか、よい信心が育っていくというか、祈ってみかげがない、お願いをしておかげを受けられない。そんなことのあろうはずはないのに、おかげが受けられないと、そこにね、自分自身という者を極めていくということになる。わが心にありである。
お願いしてもお願いしてもお願いが成就しない、お願いが成就しとる事であるから、いつかは成就するだろうというような安閑としたものではない、神様を絶対のものとして願う。
祈っておる、願っておるけれどもおかげがない、それは結局はわが心だという。お願いをして頂いておるけれども、又自分もお願いしよるけれども、みかげがない、しるしがみえない。そこの所にです、わが心といういわゆる自分の心というものをやはり見直してみるという姿勢が大事です。
改まりに改まり、修行に修行させて頂き、いうなら私なりに、一生懸命のお願いをさせて頂いておるにもかかわらずみかげがない、おかしい事である。
私はこういう時に自分の願いというものが成就していないに致しましても、その願いの周辺というか、イキイキとした神様の働きを感じとらせて頂いておるならね、これはおかげが頂けんのは神様のご都合だという事が分かる。
お願いをして御影がみえない、おかげのあるもなきもわが心とおっしゃるから、自分の心というものを、いよいよ見極めて、成る程こういう心ではおかげは頂けまい、こういう心はまだ修行が足りないというような事をです、気付かせてもろうて修行もさせてもらう、自分の心を改めるということにも一生懸命にならせてもらう。
けれどもなおかつみかげが表れない、お願いをしている事のしるしがみえない、ところがですね、それは私共が願うという事は、往々にしてまあいうならば、理不尽なというか、又はおかしな願いをしている事も沢山ありましょう。
いうならね、どうぞ靴なら靴を欲しいと、自分の足は十文しかないのに、十一文を下さいとか十二文を下さいというような事がですね、そういう願いの場合に神様が下さるはずがありませんよね。本当に十一文が欲しいなら、足が十一文にならなければ、ピッタリと合わなければ、おかげは頂けません。
子供が親によく切れる刀を買うてくれと言うてもそれは親が買うてやらないようなものです。そんな切れる刀を子供に持たせよったら怪我をする。怪我をするだけならよいけれども、人にまで怪我をさせる、そのような事の為にみかげは、私は表れないと思う。
ですから私共はね、そういう願いをしているような場合もある、けれどもそこは、まあ人間凡夫の事ですから、相分かりませずけれども、お願いをしている事は一生懸命。そういう時にですね、いわばみかげ、おかげのしるしがね、その靴を下さるとか、刀を下さるというようなおかげではなくても、おかげのしるしというものが、その周辺に感じられるようになります。
そこに私共は信心の力を得るというか、これはこちらが本当のものになるさえすればおかげが受けられるぞといったような、自信もいわばついてくるのです。
例えばここにお金が欲しいと思うてもです。そのお金のお繰り合わせは頂けなくても、その周囲に神様のおかげだなと、神様のお働きだなと思わせて頂ける様な、しるしがみえておればいいですね。 けれども、そのしるしも見えないなら、これは本気でひとつわが心に取り組まなければいけないと思いますね。
最近ここで願うという事が非常に強調されます、願ったが最後、もうどうでもこうでも頂こうという姿勢を作って願っていけと。
だからお願いをしたからには、どうでも頂かなければならん、という姿勢を作るという事ですけれども、願っていく状態というものがまず、検討されなければならない。それを昨日の朝の御理解頂くと、楽な心。
ところが実際は、その楽な心というものがないからこそ、信心しておるんだと、お参りしておるんだという事になるんです。
例えて申しますと、昨夜のよるの御祈念をさせてもらう時、もう私は非常に体がきつかった。これはもう糖尿病というのはからだが段々きつくなって、他の病気を併発したりして、亡くなっていくというのが特徴です。
それがもう日に一回くらい、どうにもできんごときつくなる。ここで据わっておっても、もう手も上げたくないごときつくなる。それでもやはり、いうなら夜のお勤めですから、お勤めだけはさせて頂こうと思うてここへ座っておったわけです。
ですからそういう体がきついから、どうぞイキイキとした元気な心を与えて下さいと。そのきつい心で願ってもいけない、だからそのきつい心がまず、イキイキといてくる事を先に願わなければいけない。
ですから願いという事は、そういう事になってくるのです。例えばこうして下さいと、願うただけじゃいかん。だからそれを願う前に、その願いにふさわしい心をまず願わなきゃいかん。
丁度吉井の熊谷さんが御祈念前に毎晩お参りになりますが、昨日は美登里会でしたから午後から夕方までここへおられました。そしたら又、夜の御祈念に参って来ておられる。そこでお届けをされますのに、美登里会を終わって帰らせて頂きましたら、もう娘がお風呂の湧かしてくれておれば、御飯の用意もしておってくれます。それでお風呂を頂いて、御飯を頂く、頂き終わりましたら娘が「もうお母さん、夜の御祈念に参りなさる時ですよ。」とこう云う。「あらもうそんな時間の」と云うてお参りをして来たと。
云うなら、三里もの道のりをですね、日に三回だけでなくて、昼なんかはもう夕方までここへおられたんです。それでお家へ帰られたら、もうお風呂も湧いておった。御飯に準備も出来ておった。お風呂も頂いた、御飯も頂き終わったら娘が、もうお母さん夜の御祈念の時間ですよ、早く間に合いなさらにゃと、こう云うてくれたから、本当にもう有り難うしてからね、娘がそう云うてくれた事が、もう本当に有り難うしてお参りさせて頂いた。
云うなら、もう七十幾つになられる、熊谷さんがです。そういう元気な心で神様へ向こうてこられる、お取次をさせて頂いておったら、こちらの方が元気が出てきた。もうそれこそ今まで、きつうして手も上げようとごとなかったのが、本当に熊谷さん、信心ちゃ有り難いですね、こうして信心にからっておられる、云うなら。
私はね、信心生活ということは、信心にかかる事だと思うです。只ね、とってつけた様にという、参っとる時だけ願っておる時だけが、信心ではなくて、もう生活全体が信心にかかっておる、信心とは私はそれだと思う。
云うならば、熊谷さんの場合は、お参りにかかっておられる本当にこれは恵まれたおかげを頂いておられる、信心にかかっておられる。一辺願うたけんよか、もう二辺参ったけんよかということはなか。
その信心にかかっておられるという事がです、熊谷さん、有り難いことですなというて、本当に私も有り難いと思うたから、有り難いなと云うておる瞬間からですね、私のご体中に湧いてくる、生気とでも申しましょうか、それこそ、ご体の血が入れ替わった、云うなら腐った血から生き生きした血に変わったと思われる程しにイキイキとして元気が出てくる。
もう本当に御祈念がそれこそイキイキとして、有り難うして有り難うしてのお礼が出来る。
私はね、そういう心がイキイキとしてくる、その生き生きした心で願わせて頂くところにみかげがハッキリしてくるのだと思う。
だからこれはそんなら例えて云うと金銭のお繰り合わせを頂きたいと云うて、皆さんがお参りして来る、それももう尻に火がついたように険しい。これは金銭だけの事ではない、何の願いでもえる、だから子を毎日参っておるとこう云うのです。だからそんなら一生懸命お参りをして来るでしょう。そしてお参りをしてきて御祈念も一緒にさせてもらえ、又は御理解を頂かせて頂いておるうちにです、あなた方の心の中の状態というものが有り難いと云うものに充ちてこなければならない。
云うなら体に生気が充ち溢れてこなければならない。こないとするならば、まずその事を願わなければならないと云う事になるのです。
そこで私共がね、願わせて頂く、自分の心の中にイキイキとした元気な心を与えて下さいと、願いに願わせて頂いてそこに、御理解なら御理解の中から、ふっとこうヒントを頂いた途端に、自分の心が感動する程しに何か有り難うなってくる。新しい血が入れ替えられたように思う。
御祈念をさせて頂いて、御祈念中に何かしらん神様とこれが交流しておるのではなろうかと思う程に、有り難い気持ちが開けてくる。
そういう心でね、今願わなければならない事を願わなきゃならん、私は日々、日参をさせて頂いて、おかげを頂くというのは、そういうところにですね、有り難いものがあると思うてですね、日参の巧徳というなら。
だから願うと云うても願うひとつの過程、それを願うたふさわしい心の状態をまず、願わなければならない。皆さんが毎日お参りをして見える。いわゆる難儀な問題を、どうをこうなりますように、お繰り合わせを頂きますように、というて願われる。願われるとそれに対する御理解を頂く、御祈念をさせて頂く、そして帰る時には、「これでおかげ頂いた」と云ったような心持ち、今日もおかげが頂けるぞと云ったような心持ち。
そういう心で帰らせて頂くけれども、帰って現実に直面すると又、その心が崩れる、これがお互いの実態じゃなかろうかとこう思うのです。
けれどもね、私は、それでいいと思うのです。いわゆるお参りをさせて頂いて、おかげを頂いた、と思う。その思うその間に神様のお働きはバタバタある訳です。
云うなら、そこが生身でありますから、凡夫でありますから、帰ると又、元の不安な状態、心配な状態になりますけれども、それが繰り返し繰り返し、日々されていくうちにです、おかげの方も次第に進展していく、育っていく。
だから私はこの毎日のお参りでもですね、そう云うことの繰り返しは、なされておらなければならのに、お参りがひとつんマンネリというか、お参りをしても、お参りがしてよかったと云ったものが瞬間でもいいから、何も感じるものがないとするなら、そのお参りは、いわゆるおかげはわが心にありですから、そのわが心というものを、もう一辺検討してみなければいけないということです。
そんなら私でもというと、いかにも信心が進んでいるようであるけれども、私が例えばそんなら糖尿病ということは、この糖尿病ということだけは絶対なんですよね。医者が診てもやはり糖尿病なんです。体から毎日たくさんの糖がでておる。私は今サイダーより甘い尿がでておる、ですから、体がきつくなるのは当然なです。
成る程段々これがきついのが高じて結局死を待つより他はあるまいと、昨日はもう糖尿病のお届けだけで三つか四つありましたよ、みんなひどい。
最後に聞いたのなんか、もう五十幾つになって体がきつうなるに従って、駄目になると聞いたもんで悲観したんです。とうとう自殺してしもうたというような話を最後に聞かせてもろうた。
私はそれを聞いて心が動揺する事もなかなければ、ある意味あいでは、ビクっともしません。けれどもどこかにはですね、どこかにはやはり私は糖尿病だという意識がある。これは糖尿病という名の神様のご都合だと、私は頂いておる訳です。
糖尿病という名の神様のご都合だから、その神様のご都合が終わりゃ、私はおかげ頂くという信心をもってしておるけれどもです、日に一回か二回は、どうにも出来ない程しにきつうなってくる、この事実だけはどうにも仕方がない。
そういうすき間にです、云うならすきま風が入ってくる。
昨夜の御祈念の私の体の状態、心の状態というものはもうとにかく、イキイキとした心も勿論ない、きつうしてきつうして手も上げられん位にきつい。
けれども心に求めてやまないもの願ってやまないものは、願いの前提となるところの願い。どうぞ有り難うならして下さいと、元気な心を与えて下さいと、そういう願いをもってここへ座らせて頂くときにお繰り合わせを頂く。
熊谷さんという、云わば七十幾つにもなるおばあさんが、もうこれで三回も参って来なさる、何と元気なおばあさんじゃなかろうかと、思うただけでも元気な心位は元気だなあと。
そして、お届けの内容を聞かして頂いておるうちにです。信心ちゃ有り難いですなあ、信心にそうしてかかっておれると云うことは、何と有り難い、お参りにかかっておって一切が成就しておるといったおかげを頂いておられるということは、はあ何と有り難いことであろうかと。
三辺も参らにゃならんとは、そうにゃ難儀な事があるじゃろう、困ったお願いがあるじゃろう、全然ない程のおかげを頂いて信心にかかっておれれるという事が有り難い。
私がこうやって二十年間、合楽にお参り続けさせて頂いておれば、本当に気付かないうちに、おかげを受けておる事のおかげはもう、本当におかげを受けておる。
その有り難いというものが、熊谷さんを元気な心で合楽参りにかかっておれる程しのおかげを受けておられる、有り難いなあ、信心にかかっておられる、という事は何と有り難いことであろうかと、云うておるうちに、こっちが有り難うなった。
有り難くなりたいと云う人と有り難い人、その有り難い人と有り難くなりたいという人の心が交う、ですからここでは、私が朝の御祈念なんかの、現在の状態なんか、皆さんが有り難うなりたいと本気で願うたら、私の有り難いものが皆さん、交流せんはずは絶対にない。
私は三時半から御祈念が終わって、ここへ下がってくる迄の有り難さというものは、この有り難さが皆さんに交わないはずがない、もし交わないとするなら、皆さんの心が云うならコンクリートのように固い時、水をまいてもしみこまないような心の状態、心を柔くしなければならない、又願わなければならない、有り難うならせて下さい、イキイキとした元気な心が今日一日の働きの原動力になりなすようにと云う、願いをもってないからなんだと云うこと。
ですから、願いの前提としての願いがです、おかげ頂いてよかった、朝参りはしなけゃならんなと、例えばそういうものを皆さんが感じられる。その感じられる間に、これは私の事で云うなら、私の糖尿病はもう糖尿病ではない、神様の御都合に変わってしまっておる。
けれども私でも、そんなら戦っているという事実が今の話で分かるでしょう。とてもこのきつさは只事じゃない、これは糖尿病のせいだと、やはり思わにゃならんような事がやっぱあるという事。
そんなら皆さんがここで有り難いと思うて帰ってももう、家に帰ったら神様に取り組まずに心配に取り組んでおる。難儀なものに、取り組んでおる。いわゆる難儀をもう感じておる。
朝はやれやれもう安心と思うて帰っとったら、もう不安である、だからそれでもよいのだと云うことです。けれどもその願いの前提であるところの願いの心の状態というものを願わせて頂く、その事がです、願われなければいけないという事を申しました。
願いの前提になるもの、そうしてです、有り難いなあとか、信心ちゃ有り難いねと夫婦なら夫婦で話し合えるようなそう云うときにです。そういう心で例えばそんなら今、私が健康なら健康のことを願う。云うなら様々な金銭なら金銭の事をそのイキイキとした心でです、神様に願っていく。
今まではこう云う心の状態であれば、願わんでも頼んでもというような生き方だったですね。ですから今はそういう心の状態で神様にお縋りせよ、神様に打ち向かっていけというのである。
いわゆるおかげのあるもなきのわが心という、わが心が出来てくる。そういうおかげをそういう心の状態で神様にどんな無理でもひとつ願ってみる。云わばどんな願いというても筋道を立てて今日はこここれこれの借金払いがありますからと、これはもう当然いる、ここに迷惑をかけにゃいかん、そんならやっぱ願うてもよいことになる。 そこにお願いがあり、お取次を頂くことがあり、又はお繰り合わせがあるのです。
昨日一昨日、合楽食堂の中村さんが今日は先生、これこれの支払いがあります、ところが家の方にもこれこれのお金がいるとこういわれる。それでどうさせて頂いたらよかろうかと。だからね、それはもう支払わんならん放はことわっといて、家の方に回し説きなさいと、そしたら取りに来んでおかげを頂いたと。
ところがね、おくる日には前の日に仕込んでおったのがダーっと売れてから、あくる日はもう支払いが出来るしこ、おかげ頂いた。そしたらあくる日、取りに来た。おかげで本当にお願いせにゃいけませんと云うことであった。
そう云うね、云うならば、お繰り合わせが頂かなければならない。そういう私はみかげ、みかげを積んで積んで積み上げていくというところをです、私はお互いの願いの中心を云うものは、もっと他にありましょう。けれどもそういう事湖のような事にでもこのようにでも、お働き下さってある神様であるから、私の根本的に願っておるおかげの方も次第におかげを受けていくだろうと云う自信が段々出来てくる。
願わねばなりません。願わなければなりませんけれども、その願いが、あーあきつうしてこたえんという、そのきつうしてこたえんでですね、どうぞ糖尿病をようならして下さい、と私が願った訳じゃおかげにならんということです。今日はそこのところをひとつ分かって頂きたい。
そこでこのきつうしてこたえんという心にです、有り難いというイキイキとした心、自分のご体の中に新しい血が入れ替えて頂いたのであろうかと、思われる程しのイキイキとした心の状態をまず願わせて頂けと云うのである。
そこに有り難いという心、その有り難いというイキイキとした心で、どうぞ糖尿病の事は願えという意味の事を今日は申しました。
願いの前提であるところの願い、だからそういう願いを持たないで、例えばお参りをして来てもそれは本当の事にはならないと思う。
お参りをさせて頂く事は有り難いなあと、やはり実感出来なければ続きません、お参りは。だからその有り難いと思わせて頂ける合楽に行けばそれがイキイキとしてくる、暗い心が明るうなってくる。
その暗い心が明るうなってくる、その明るい心で願え、それが昨日の御理解から云うと、云うなら楽な心であり、ゆとりのある心だと、私はおもいます。
そういう心の状態で何でも願いになっていく。どうでもこうでもという願いをさせて頂く。そこにみかげがいよいよ積み重ねられていくという事ですよね。
どうぞ。